音,音符,そして想い

先日,ミリ単位で2等辺三角形を形成するスピーカ配置を終えたのち,スピーカケーブルのセッティングが気になり,あらためて,電源ケーブルとディジタルケーブルに接触しないように,そして,やむを得ず交叉するところはできるだけ直交するようにした.これによりさらに音の左右バランスが向上し,結果,音像の定位が安定し,明瞭になった.多くの人がすでに指摘しているとおり,ケーブルの取り回しは音の純化に大きく影響する.当然,ケーブルはないにこしたことはない.材質や構造にどれほど凝ろうとも,音を劣化させこそすれ,良くすることはあり得ない.最良のケーブルは「無い」ことである.プレーヤレスオーディオの利点のひとつである.

これを書きながら,Alina IbragimovaのBach ヴァイオリンソナタを聴いている.音ではなく,音符が,さらに音符ではなく奏者の想いが聞こえる.透明の空間に,「想い」だけが煌めき,潜み,躍り,震える.実に不思議な,魔境の世界である.この魅惑に取り憑かれ,味をしめると,(困ったことに)さらに欲が出て,もっとすごい境地がひょっとするとあるのではないか,と考え出す.すると,「想い」ではなく,「音」に聞き耳を立て,あら探しを始める.

むかし,俵孝太郎氏がCDの名盤を紹介する書物に,オーディオ装置は安物で十分だ,と言うようなことを書いていた.確かに,いまのテレビの,たぶん数千円のその音響部分によってでさえ結構いい音がするし,音楽好きの人にとってはそれでも十分なのかも知れない.iPodで「のだめカンタービレ」を聴いて心底クラシックを楽しめる若者も間違いなく本物の音楽好きだろう.そこへいくと,私のようなものは,音楽を真に楽しむ感受性が劣っているのではないか,と思う.別に反省しているわけではない.人それぞれでいいのだ.しかし,音の善し悪しが気にならない人は,幸せで,うらやましいと思う.

今の拙システムにあらはあるか? 批評的に聞き耳を立てても,あらは見えて(聞こえて)来ない.といって,ひとたびこういう気分になると,もはや音楽に浸る境地から離れ,魔境は消える.ただ,無機的な空気振動が室内に流れ,通り過ぎていくだけだ.

水戸芸術館に吉田秀和氏を顕彰するレリーフがあり,その書き出しに論語の「これを知るものはこれを好むものにしかず,これを好むものはこれを楽しむものにしかず」の句が引用されていた.オーディオも,そのとおりである.しかし,それを承知しながら,なおも知ることにこだわってしまう.オーディオの業である.

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