オーディオ装置とリスナーの共進化

ネットサーフィンで,瀬川冬樹氏の著作に出会った.主として,1970年代に書かれたものと思われる.ディジタルオーディオ技術が市場に出現する以前の時代である.にもかかわらず,氏のオーディオ観,特にステレオ観に私は全面的に同感した.なんと,私の思うところ,述べたいことを達意の文章で代弁してくれている.

当時はいまとは比較にならないくらいオーディオ熱が盛んなころで,私もパイオニアのLPプレーヤとレシーバ,それにGoodman Axiom301のスピーカを購入し,和室6畳間で聞いていた.上記文章にもしばしば述べられているように,すでに当時から,音場,音像の定位などがオーディオ評論家によって論じられていた.しかし,私のシステムではどうしても感じられない.秋葉原のオーディオショップやメーカの試聴室にもよく出かけたが,そのような感覚が得られない.そのため,単なる表現上の誇張,あるいはレトリックかと思っていた.

しかし,いまの拙システムでは,実に,瀬川氏の表現通り,奏者がまさに眼前にいるかのようにリアルで,かつ自然に聞こえる.いわゆる音場感そのものだ.ということは,当時すでに,氏のシステムでは,決して誇張やレトリックでなく,文字通り,現実に聞こえていたのだろう.

では,なぜ私にはそういう音が聞けなかったのだろうか.自分のシステムはもちろん,外の試聴室でもそれほど優れたシステムがなかった? それとも,システムがよくてもそれを感知できるほど私の聴力が発達していなかった? 瀬川氏は,よい音を聞き取るには,聞き手の耳も成長が必要だ,というようなことを言っている.それこそ耳が痛い話だ.

よく聞くシステムがリスナーの耳の進化程度を決めてしまう.満足すればそこまでだし,満足しなければ,オーディオはこんなものだろうと高をくくり,やはりその水準にとどまる.しかし,システムの改良が正しい方向に進められれば,それによって耳が肥え,さらに高い水準のシステムを求めるようになる.こうして両者の幸運な共進化が進む.

拙システムは,コンピュータによる制御を別にすれば,(ディジタル)アンプとスピーカだけのシステムで,それに対し,通常のシステムはなんらかのプレーヤが必需品として組み込まれるから,複雑きわまりない.それだけ音源情報を変える(つまり劣化させる)要因が多くなり,さらにそれらが相互に干渉し合う.そのため,システムの正しい改善はきわめて困難となる.優れた技術と改善の方向を正しく導く感性に恵まれた人のみがその困難を乗り越えて,システムと耳の共進化が進められる.残念ながら私にはその素質が欠けていたようだ.しかし,ディジタル技術のこの30年の進歩により,非常に幸いなことに,より単純で明確なシステムが組めるようになった.ちょうど,下手な字に悩まされ続けた私にとってワープロが福音となったように.

ここで「耳」と言っているのは,いうまでもなく耳と脳で,脳の総合認識力が果たす役割はオーディオにおいても非常に大きい.ステレオ感は左右の音の音量と位相の差で与えられる,とよく言われるが,この場合の「音」とはなんだろうか.歌手がピアノの左に定位されると感じられるとき,それは,歌声がパターンとして切り出され,そのパターンについて,左耳より右耳のほうが音量がわずかに大きく,あるいはわずかに早く聞こえるからだろうか.しかし,歌声をひとつのパターンとして認識し,切り出すためには,左右の音のなんらかの違いを関知し,それに基づく処理が必要である.低位,つまり物理現象としての音の感知から高位,つまり経験や知識を使う認知処理まで何段階かの処理階層を複雑に行き来しながら,このような精妙な処理が可能となる.現在の進んだパターン認識技術でこのような音場分析(音のシーンアナリシス)がどの程度出来るのか,私はしらないが,きわめて困難なはずである.

リスナーの耳の進化,つまりリスナーの成長は,単にいい音を聞く経験だけでなく,高度な知識と教養を必要とするものだろう.瀬川氏の著作を読み返し,改めてそのことを教えられた.

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