音のリアリズム

オーディオ再生でいう「よい音」とはなんだろうか.生の音,つまり,生演奏のような現実世界の実音に出来るだけ近いもの,という考え方がある.むかし,SLの轟音や波の音,小鳥の鳴き声などを録音したレコードやCDがあり,そのいかにも生々しい音の再現に無邪気に感心したりしたものだ.しかし,「写真」は所詮どこまでいっても真を「写す」ものであってそのものにはならないように,録音再生音も決して本物と同じにはならない別物...だろうか?

たしかにピアノ演奏の再生でピアノとピアニストそのものが出現するわけはない.しかし,音だけを切り離して考えれば,たとえ幻想であっても,本物の音に限りなく近づけることは可能ではないだろうか.事実,我が家のシステムで目を閉じて,オーケストラを聴けば優雅に指揮棒を振るカラヤンとそれになびくバイオリンのボーの群れが,ピアノを聴けば演奏に没入し唸るキース・ジャレットの踊る両手が,あざやかに目に浮かぶ(自慢です).

鳥のさえずり,虫の鳴き声が実世界での現象であるように,左右スピーカの作り出すステレオ音響空間も実世界の現象であり,その意味で,これも一種の自然音である.ただ,不出来の装置ではなぜかその音は不自然で,通常の自然音とは異なっている.その違いはどこにあるだろうか,まず,音の粒の充実度が異なる.オーディオでいういわゆる「実体感」「実在感」である.「ステレオ」とはギリシャ語で「solid」の意味だそうだが,まさにsolidだ.solidといえば「固い」という日本語にも対応するが,音が固いというのではなく,中身がぎっしり詰まっているという感じだ.出来の悪いオーディオ(とくにホーンスピーカ)ではその歪みからか,私には音が固く感じられるが,その「固い」とは全く別物だ.solidな音には,力強い立ち上がりがもたらす弾力性と,かすかに震える余韻の精妙さが伴う.

悪い装置の音に付くノイズや歪みは人工的な不自然さから不快感をもたらすが,不思議なのは実世界のノイズ,たとえば車の走行音やエンジン音などにはその種の不快感が必ずしもあるわけではない.楽器演奏の音も,考えてみれば作られた「人工」音であるし,電子楽器による音など人工(機械)音そのものである.しかし,不思議とその音は「自然」に感じられ,直接聴くとオーディオ再生音にはない生々しさと鮮度がある.オーディオ再生では,不自然感と不快感を呼ぶオーディオ特有の音情報の加工があるらしい.よくある「電気くさい」とか「箱くさい」というのはその典型だ.

Macでミュージックファイルをプレイするとき,iTunesにAudirvana Plusを加えるとアップサンプリングなどの「加工」が出来る.私もこれまで何度となく試してみたが,なんとなく濃い味がして,長時間聴いていると鼻についてくる.もとのiTunesだけにして聴くと新鮮さが戻ってくる.Devialet AIRアプリとの整合性が悪く選曲制御がうまく働かないこともあり,現在はほとんど利用していないが,アップサンプリングのアルゴリズムが加工の行き過ぎをしているような気がする.厚化粧である.もっともそれを好ましく思う人もあるかもしれない.以前使っていたDVDプレーヤDV50には寅市筑波大学教授(当時)のフルーエンシー理論を使ったアップサンプラーが組み込まれていたが,これは(私の耳には)効果があり,よい音に聞こえた.サンプリングレートを高くすればよいという単純な話ではなく,アップサンプリングの方式が問題なのだろう.

ディジタルオーディオ技術の進化過程の中で大きな間違いのひとつに感覚的圧縮コード(perceptual coding)がある.MP3など非可逆的圧縮と呼ばれるものである.このコーディングの音の悪さには定評があり,故Steve Jobsがディジタル嫌いだったのはそのせいではないか,という説もある(とすれば,自分では本当は気に入らないものを大量に売っていた?).オーディオにほとんど興味を持たない愚息でさえ,拙システムでAACとAIFFとの比較試聴をさせたところ,その違いがすぐにわかった.もう十年以上前になるが,あるメーカーの技術者がハイレゾなどは過剰仕様で,MP3で十分だ,といっていたが,そういう人たちの判断(「感覚」)で違いが分からなければよしとするアルゴリズムでコーディングされたのだ.たしかにiPodやパソコンのスピーカで聴く分には違いはわからないのかもしれないし,昔は通信もメモリストレージも極めて高価だったから,大幅圧縮の意義はあったのだろう.しかし,現在は,通信もストレージも格段に安くなっている.にもかかわらずApp StoreではあいかわらずAACが使われているのはどうしたことだろう(ただし,非可逆のはずのAACなのに,最近はなぜかAIFFに変換できる).

音源情報をいかに劣化させないで正確に再生しようか,ということに情熱を注ぐのがピュアオーディオである.それは,ひとえに録音(記録)時の音源自体にほんものの情報が入っているはずだという信念があればこそ成り立つ行為である.オーディオなんてたかがこの程度だ,とあきらめることなく装置をさらによくしたいと考えるのは,音源にはよりよい音がはいっているはずだと考えるからである.じっさい,このブログで書き続けてきたように,装置を改善すると,まったく同じ音源から一段と優れた音を引き出すことが出来る.CDやハイレゾファイル音源だけでなく,LP録音やSP録音(をCD化したもの)の音源でさえ,よい再生装置を通すと,自然で,リアルで,あたかも生まれたばかりの演奏音を聴くような感動を受けるのだ.

録音技術の発明とその進化のおかげで,音楽演奏という一過性の空気振動をほぼ永久にとどめることが出来るようになった.録音音源は,ヴォイジャーが宇宙のはてのETに届けるべく持って行ったくらい,人類が自慢できる偉大な文化遺産なのだ.再生システムを少しでもよくしたいというのは,これらの文化遺産の神髄をできるだけ深く味わいたいからだ.その録音がMP3やAACのようなひどいコーディングでなされるようでは,せっかくの音楽,せっかくの演奏が無残にも汚されて残ることになってしまう.ついでにいうと,映画音楽などで今もって使われているドルビー方式も問題だ.シネコンは昔の映画館から比べればずいぶんよくなったけれど,音響だけは相変わらずで,歪みっぽい.とくに,見せかけの迫力作りのせいか,強調されすぎた重低音の不快感は耐えがたい.

音を化粧してよいことは何もない.オーディオではすっぴんがよい.

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